ファビアン・カルパントラ
カメラの中の社会
−民族・ジェンダー・他者・表象−
まず、先生の研究内容を教えてください。
映画研究をやってるんだけれど、その中で社会的・政治的なことをやったり、あとは映画理論とかね。映画研究といえば基本的に作家論とか……そういうイメージがあると思うんだけど、そういうことではないんだよね。映画研究ではあるんだけど、映画と社会の関係とか、映画と政治の関係とか、そういうことに興味があるね。
じゃあ、その映画の歴史とかを踏まえた上で、今の社会とのつながりを研究する感じですか?
映画の歴史/映画史っていうのは、技術的発展ないしは目的論的史観がメインだったんだよね。そういう「論じ型」が一般的だったのに対して、90年代あたりになってくるとそうではなくて、一直線に進んできたように見える(映画の)歴史が、本当はより社会的・政治的に構成されている歴史なんだよっていう。
この捉え方は、ミシェル・フーコーの影響が強いんだけどね。フーコーの言説論とか、そのあたりからメディア/媒体としての映画はニュートラル/透明な存在ではなくて、あるいは社会が抱えている不安や恐怖を反映しているだけではなくて、その不安や恐怖を構成する役割でもあるよ、っていう捉え方に関心がある。わかる?だから構成すると同時にメディアとしての映画の存在自体が社会を構成していく一部でもあるよ、という。
技術的な考えからしてしまえば、映画の発明っていうのは全く新しくはないんだよね?写真なんかだって、19世紀の中頃くらい昔からあったし、基本的な原理は古代ローマから知られていた。なのになぜ映画の発明はされなかったのか。そうなってくると物質的・技術的な問題だけではなくて人の思想的なものが重要になってくる。昔の人は、事物を映し出す装置を必要としていなかった。それに対して、事物を映し出す装置を必要としている、我々の現代の社会はどういう社会なのか。そういうところから映画と社会一般のこととつながる。
スタジオ※の授業では具体的にどんなことを教えていますか?
扱うテーマは学期ごとに変わるんだけれども、僕が関心を持っているということと、学生がある程度楽しくてわかりやすく入っていけるということを考えています。
例えば去年は「カメラ目線」というテーマを扱ったんだ。カメラ目線は映画の初期にはものすごくよく使われていた手法なんだよね。でもある時期からタブーになってカメラ目線は長い間使われなくなった。また使われるようになって、最近ではハリウッドなんかでも使われるくらい一般的になったんだよね。だけど、手法は同じなんだけど、カメラ目線の意味合いは全く違っているんだよね。
面白いのは、1903年の「大列車強盗」とかで使われた映画の中のカメラ目線と、60年代あたりから今現在に至るまでに使われている映画の中のカメラ目線とは、役者の身体の使い方とか表情だとかが微妙に違う。同じ手法のカメラ目線なんだけど、観客に対するアピールの仕方とかが全く別のものになっているんだよね。役者と観客との間に親密な関係みたいなものができる感覚になるでしょ?より距離感が縮む、そういう効果があるわけでしょ。それがどこまで親密な関係なのか、本当の親密な関係なのかとかそういう問題が出てくる。映画論的な話なんだけど、そういうことを考えることが面白いんだ。
(こういう感じで)例えば「カメラ目線」の手法を中心に置きながら、(その手法が)ずっと同じではなかったこと、時代によって、社会の要求することによって変わってきていること、そういうことを繋げて考えてみるとすごく面白いんだよね。スタジオではそういう感じで、決して難しいことをやろうとは考えているわけじゃないんだけど、ある程度ね、自分自身も学生も答えを持っていない問題を皆さんと一緒に考えることが楽しいんだ。もちろん具体的な事例を観ながらね。
※都市社会共生学科にはゼミの前に、実践を重視する「スタジオ」という授業があります。
E・サイード『オリエンタリズム』に衝撃を受けた。
今はマルチカルチュラリズムの突き当たり。
普通の講義のような授業でのコンセプトも教えていただけますか?
そっちは、社会と映画、政治と映画の話に焦点を当てようと思っていて
その中で、民族性とか他者性とかの表象の仕方だとか、ジェンダー論のことだとか、そういうことに関心があるんだよね。例えば、E.サイードの「オリエンタリズム」っていう本は読んだことある?
名前は聞いたことがあります。
70年代後半の本で、彼はポストコロニアル理論の先駆者だね。これまで当たり前だとされてきたステレオタイプだとか、異文化の表象の仕方だとかを批判的に分解しているんだよね、彼は。19世紀のヨーロッパの文化というのはオリエントをこういう風に構築してきたんだよって、それは本当のオリエントではなくて西洋人たちが妄想していたオリエントなんだね。もちろん(サイードは)、言いたい放題ではなくて、大量の歴史的資料を用いながら論を進めている。それを読んだ時ものすごく衝撃を受けたっていうか、自分が漠然と分かっていたことが裏付けられながら説明されていたことがすごく面白かったんだよね。そこから、僕が生まれ育った環境や文化っていうのは、異文化をこういう風に表象してきたし、しているなと納得したんだよね。
最近は、多文化主義の時代になってきているんだよね。それは悪いことじゃないね、もちろん。ポストコロニアル理論から始まったマルチカルチュラリズムというのは、やはりこれまで抑圧してきた民族の文化をよりリスペクトしなくてはならないでしょっていうそういう動機から始まったものだから、全然悪いことじゃないね、良いことなんだけど。ところがそれが80、90年代、2000年代になってくると、マルチカルチュラリズムをそういう良い方向ではなくて、悪い方向に使おうとする人たちがどんどん出てくるんだよね。今、我々が生きている世の中はそういう世の中なんだけれども…。
ドナルド・トランプとかが言っていることはまさにそうじゃん。僕は別に人種差別主義じゃないんだけれども、アメリカの文化を守らなければならないでしょ、それは黒人たちの文化を守らなければならないのと同じように我々の文化も守って何が悪いのみたいな、それが白人至上主義につながるわけ。この前、クライストチャーチのテロ事件があったでしょう、一ヶ月くらい前に。まさにそういう考え方だよ、あの人達が言っていることは。あの人の文章とか言っていることを読んでみると、そういうことを言っている。マルチカルチュラリズムの視点から我々の文化を守らなければならないよって。
そうなってくると、別にサイードが悪いとかじゃないよ、マルチカルチュラリズム自体が悪いわけじゃ全くないんだけど、ただその、一種の突き当たりにぶつかっている感じがするんだよね。それを考えるときに、じゃあどうすればいいんだと。フェミニズム論にも同じことが言えるんだよね、ずっと女性の立場を守らなければならないのと、男性のことと…。男女平等だね、それはもちろん良いことだし、実現されていないことなんだけれども。「女性、女性、女性…」と言い過ぎてしまうと、逆に、弱い立場の男性とか、民族的に恵まれない存在の人も含めて、じゃあ我々はどうすれば良いんだよという(彼らの)反発を招いてしまうんだよ。そうすると、(彼らが)反撃し始める。そうなってくると、女性の立場を守るということや男女平等のことはすごく大事なことなんだけど、同時に、それは全てではないんだよね。
そういったものを解決できるものは何なのか。それで今、後期に階級の問題を取り入れようと考えているんだよね。だから結局、経済じゃない?それが全てではないかもしれないけれど、でも、経済がほとんどだよね。だから、民族性とかジェンダー論とかもやっているんだけれども、階級問題にも、もうちょっと焦点を当てようと考えているね、今は。
じゃあつまり、講義の中では社会的な背景に焦点を置いて映像の話をして、
スタジオの中ではもっと映像の技法に寄ってみんなで議論していくという感じですかね。まぁ映画学校じゃないんだけどね。知っているよねそれは(笑)映画学校じゃないんだけど、でもまぁスタジオではより実践的なことをやっていて、講義の中では色んな参考文献を紹介しながら、今、現代の社会が抱えているいくつかの問題を取り上げているね。
なるほど。では最後に、受験生にひとこと、メッセージをお願いします。
えーーー。逆にある?都市社会共生学科どう?楽しい?
(笑) 楽しいです!(笑)
こういう学科ってあんまり無いと思うんだよね。そういう意味では良くも悪くも面白いことをやっているのかな。都市っていう存在が、都市=社会というわけではないんだけど、大抵の現代社会のあり方っていうのは都市的なものになってきているじゃない。都市の問題を抜きにして現代社会のことを考えることは不可能に近いと思うんだよね。
そういう意味では都市社会共生学科という学科があること自体は重要。都市社会共生学科にいる教員たちはそれぞれ都市に対して面白い捉え方をしているし、学生たちが今まで考えてこなかったようなことや問題を紹介してくれる場所でもある。
映画研究、60年代文化
映像社会論講義、映像社会論演習